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概ね日付が変わる頃書いているので昨日と今日の境目がおかしい。幕末と人形と文学的な何かを愛している。
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歴史が好きになるか否かは、学校で習う前にそれを発見するか否かに拠ると思うな。発見は主に創作を読解する過程において現れるから手に取り易い漫画やゲームを入り口に、と言うのは間違っていないと思う。難しければいいってモンでもないしね。何事も。
ただ、学校で習う歴史が得意かどうかって言うのは他の多くの教科と同じように先生の力量(と、ある程度の個人の力量)にかかっていると思うし、概ねの場合、先に歴史を発見してしまった人は興味のあるとことないとこの出来の落差が大きい。ただ好きなものって覚えやすいし、自分で調べて学ぶという手段を誰に言われるでもなく持っているから、他の人間よりはアドバンテージはある。聞いたことも読んだこともない言語を習うより、単語を知っていたりその言語で用いる文字を知っていたりする方が習得は早いでしょう?好きって言うのは、勉学においては根本的にはその程度の有利でしかない。まあ、あと歴史というものは連続であるからして、流れを掴み易いというのは理解を早める助けにはなるかな。でも、それもアドバンテージとしては瑣末なもの。丸覚えの方が試験で役に立つことも時にはある。

んで、この歴史の発見っちゅーのが如何なることかと言うと、だ。別にどこぞのドイツ人みたいに、あるかなしかをあると信じて終に発掘するような、そんなことではなくってね。
例えばそれは、オスカルが実在しないことを発見したり、忠信は別に狐憑きじゃないってことを理解したり、坂本龍馬は(多分)テンガロンハット被って調子外れの米国国歌歌いながら往来を歩いたりする人ではないと気付くってことだと思う。今挙げた3つは、まあ全部私の個人的な体験なんだけれども、後者2つは兎も角として、「オスカルが実在しないことを発見」と言うのは特にある年代の人たちにとっては凄く判り易い喩えなんじゃないだろうか。オスカルと言うのは勿論、『ベルサイユのばら』と言う漫画の登場人物で、架空の存在であるわけなのだけれども、普通にこの漫画を物語として読み、読者の頭の中で「オスカルが実在」している間は『ベルサイユのばら』はただの物語であるわけ。革命とそれ以前の宮廷の美しさや、愛やらなんやかんやの入り混じった非常に美しく悲しい物語。
ところが、何らかの理由……例えば、マリー・アントワネットの伝記を読んだり、何かしらフランス革命に関する記事を読んだり、それこそ学校の授業で習ったり……で、「オスカルが実在しない」と言うことに気付いた時、この漫画はただの物語ではなくなり歴史モノというジャンル分けがなされ、読者の中には歴史を読むと言う新しい機軸が出来上がる。何故なら「オスカルが物語に存在しない」場合『ベルサイユのばら』は物語として成立しなくなる。いや、まあ厳密に言うと居なくても確かに話は進むんだけど、ずっと短く、醜く、盛り上がりに欠ける話となってしまうわけだ。『ベルサイユのばら』と言うあの美しく悲しい物語にはならない。
で、あるにも関わらず、何故革命と言う大きな流れは起き、時代は変わり、王政は倒されたのか。もしくはもっと簡単にじゃあ王妃さま以外にフェルゼンを愛した人はいたのか、とか。つまり。「オスカルが不在の場合に起こりうる動き」について探り始めた時、人の中に歴史と言う概念は生まれるのだと思う。
で、その発見に際して付随することを調べたり、考えたりすることの出来る資質を予め持っている人たちが、歴史を好きな人になりうる、という所なんじゃないかな、と思う。
そして、そこについて言わせて貰えば、学校の授業でやる「テストで点数とるための歴史の勉強」って著しく調べたり考えたりする時間が少ないわけなのだよ。つか殆どしないよね?したことある?僕は無い。小学校なんかじゃあ「調べ物学習」って言うのがあったけれども、アレは「調べ物」の手段を学ぶためのものであって、歴史について調べたり思考するそれではなかったように思う。これこれこう言う流れでこうなって誰がどうしてああしてそうして、はい覚えてー、と。多くはそうして押し付けるわけだ。それは歴史を学ぶことではなく、ましてや発見など望めない。それでは好きになる資質を持った人であっても、嫌いになるか興味を持たないか、と言う話になる。これは惜しい、実に惜しい話だ。
ただし、惜しい話ではあるのだけれども、教育としては別に間違ってはいないと思う。過去がどう言う道筋と、どんな出来事の積み重ねでここまで進んできたのか。言葉の上だけでもそれを覚え、解することは無駄な作業ではない。歴史が好き、という場合大抵の人は特定の時代、特定の人物、特定の文化などに対する興味や理解をもってしてそう宣言する。ただし、知識として歴史を生かそうとする場合、それではダメなのだ。無論、何が起きてどうなったと言うことを知っているだけでも意味はない。2つが重なり、混ざっていなければダメ。
なんか終息がつかなくなりつつあるけど、つまりはそう言うことなんだよ。

余談だけど、この歴史の発見と言う現象をすると逆のパターンに対する興味が生まれる。つまり、史実からのIFの想像。もしもの場合、を求め始める。もしもの場合を面白がり始める。これが歴史モノの創作物……小説やら漫画やらゲームやら、まあなんでも……を楽しんだり、好んだりと言うことに繋がる、と僕は思う。

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